昭和46年05月16日 朝の御理解
御理解 第94節
「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にする様な事ではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
此の通りでありますけれども。やはり、物事には表裏と言う物があります。裏表と言うのがあります。また篤さ深さと云う事もあります。其処で、やはり表面、表だけの事ではならない。その裏も分からなかえればならない事もあります。もうそんなにせんでもいいよと、口でまあ言わなければ成らん場合もあります。心には、まぁ、そうして欲しいと言うけれども、言葉にはそう言う場合がありますね。だから、相手がああそうですかって言ったら、こちらがっかり。
そうでもありましょうけれども、と言うて相手だ今度はそれをなしたごとにしますと、やはり有り難い。嬉しい様なもんですね。遠慮と云う訳ではないですけれども、其処迄せんでもいいですよと、それではやっぱり、させて頂かなければと。だから、いわゆる言葉にも裏表がある。先生、ああ仰ったけれども、あの裏が有るのではなかろうかと、云う様に、やはりこれは先生だけの事ではありませんけど、そこん処を考え、やはり当たらして頂かなければいけないと。ね。
物には相違と言う物がある。裏表がある。また、その人によって浅く頂く人、深く頂く人。其処で、自ずと実際の形の上の事やらは、違うて来る場合があります。私は今日ここん処をですね、これは取次ぎをさしてもらう者に対する御理解でありましょうね。信者に不同の扱いをすな、ものを余計に持って来ると、それを大切にする様な事ではない、信心の篤いのが真の信者じゃ、とこう言う。
そこで今日は私、今は大切にする様な事ではならんと。私此処ではこう言って居られますけれども大切にせなければならん、と私ここの裏の事をこう考えたね。先生は信者を大切にお粗末に扱って良い。お粗末に扱かわならならん、と言うとる訳じゃない。大切にする様な事では物を持って行くより、物を余計持って来る者だけを大切にするのであって、だから私は物を持って行こうが持って来まいがね、私は大切にする。
お供え物を一つさして頂きたいけれど、出来ないと言う人もある。ね、なら自分の思う様にお供え出来る人もある。だからそういう場合にですね、やはり大切にすると云う事が、私の焦点になる。だから私は信者を大切にしなければならないと。ね、大事に扱わなければならないと思う。それはね貴方こなたと言うてその撫で摩りする様な大切な仕方ではなくてです、大切にすると云う事は、私は此処ん処を焦点を置いてですね、問題はその氏子がおかげを頂かなければならんと云う事。大事にすると云う事。
丁度ありますね。先生がなら撫で摩りしたから、その人助かると云う事じゃない。だから私の心がですその人を大切にする、事によって私はおかげを下さる。物を余計に持って来る者を大切にする様ではならんと仰るが、物を余計持って来る者も大切にする、物を持って来ない者でも大切にするとこう云う事なんです。その大切にするその具合と言う物がです、ね、千差万別だと言われる。だからその焦点を問題はその氏子が、その信者がおかげを受けなければならないと云う所に、焦点を置くと云う事です。
今、久留米の滝本さんが、私の散髪をまぁ御用して下さると。ああやっぱですね、髭が濃いですから、どうしても一週間に2回くらいは来て頂かないかん。でも、お店を終わられたり、お休みの時やらに来て頂くのですから、しかも、信心と言うてもまだ、数で言うたらまだ何回かしか参った事の無いご信者さんですから、まぁ、気の毒な事だとこうと思う。けれども、やはり滝本さんが私はおかげを受けて、受けてもらわなならんと思う。この前の、ちょうど10日の月次祭でした。
お祭りがすんで、佐田さんが、何時も佐田さんが、魅力なもんで、佐田さんが見えると言うと自動車に乗せて来てやんなさるけん。何時も夫婦でいつも乗せて来て下さる。もうお祭りの済んで、お説教も済んで、私は控えに下がっておりましたら、あの滝本さんが見えましたからというね、佐田さんが見えましたから私が申しました佐田さん、私髭を剃って貰うだけなら、わざわざ滝本さんに来て貰わんでん良かっと私が。
せめて私の1週間に2回なら2回、私の髭をあたりに来て貰うと云う事は、2回普通ならお参りが出来んけれども、お参りが出来るとう云う事。ね、ですから、せめて今日月次祭ですから、せめてお説教だけでも頂こうと云う様な意欲を持って、お参りもしても頂く、説教も頂いて頂く、そして私の髭をあたって下さる。と言うなら、分かるけれども。ただ髭剃りなら来てもらわんでんええって私が佐田さんに申しよる。ね。
それはで私は滝本さんを、大切にしとると言う積りであった。おかげ頂いて貰わんならんから。ただ髭剃りだけなら、いわばお金渡してから、出張費払ってからして貰ってもかまわん。ね、また信者じゃなくて、私の髭あたるくらいならば、今まで久保山さんがずっと、受け持ってやってくれてましたから、それでもいい。けれどもやはり職業が、そりゃ理髪屋さんでありますから、せめて先生の髭でもあたらして頂いてと、こう言うならば髭、髭もあたらして貰う事も有り難いけれども。
それに伴うて信心をして貰わなければならん、おかげを受けて貰わなければ成らんからと言う内容で、私は佐田さんにそう申しました。そしたら佐田さんがね、こう云う事を言われるんですよ。親先生時節を待って下さいとこう言わっしゃる。もう私はそれを聞いた時ですね、もうピシッと、もう私共がどうもせっかちなものですから、私は大体。ですからその、成る程私は、その人におかげを受けて貰わなければならんから、そう言うとうとではあるけれども。
もし滝本さんにそう言ったら信心ちゃそげん難しかもんなら、なら私は行くめと言うて髭剃りにも来んごとなったら、言うならせっかく出かかった信心の芽を摘み取る様な事になる。佐田さんが言われる様に。親先生時節を待って下さいと私どもこうなら、難しい時間にわざわざ乗せて来たり、帰ったりすると言う様な、面倒な事なさっておられる。親先生の髭あたって貰うために。佐田さんのあの信心の素晴らしい処は此処だなと、私はその時思いました。ほんな事の。
だから私はね例えば私はおかげを受けて貰わなければならんから、私がちょっとせっかちにそう言ったけれども。それを折角おかげを頂こうとされる芽を摘む様な事になる。これも大切にした事だけれども、大切にした事がかえって、芽を摘む様な事になる。それを佐田さんの生き方で、時節を待って下さい、そうそう私の接しておりさえすれば、これが2年か3年、5年掛かろうとも、その内にはです、ね。
本当に信心で髭をあたられる日が来るに違いはない。と云う事を私分らして頂いて、なら私が時節を待って、其の事が今まで言われる事にになる事は、もっと滝本さんの信心を大事に育てる事に成る訳なんです。大変御神酒の好きな方ですから、終わりますと私は必ず私と一緒に一杯頂きます。ね、これも是はいかにもその形の上を大事にしとう様であるけれどもでもやはり、御神酒を頂きながら話す事は信心やはり。ね。
誰々さんは来てあって、あんな御用し御座るばってん、御神酒も出しなさらん。けれども、焦点が此の人が助からなければならんから、と云う事に焦点を置いた時にですね同じ事になるでしょうが。ただこちらの思いが浅薄である、ね、浅い薄いそれをちょっと深く考えさせて頂いたらもっと助かる道があるという、その道を求めも求めて、私は信者に接して行く積りでおります。佐田さんにその言われる、丁度佐田さんの朝の御理解が、時節を待っておかげを受けたら良かろうと言うあの御理解じゃった。
それを佐田さんは、だからじゃないけれども、性格がそんなんですよね、やはり。あちら奥さんは、私と同じ非常にせっかちなん。ご主人はそれと反対に非常に、その落ち着いて、なんて言んですか、シニカルなんです、考え方が。深い訳です。私はその一言で教えられる思いが致しました。其処にです、大切にすると云う事の内容を、より深めて行かなければならん、より広めて行かなければならない処にです。
人の見た目にはそれは、不同の扱いをする様に見えるかもしれませんけれども、私は焦点を人が助かる事さえ出来れば、神には大切にしなければならない。叩く事も大切にする事でもありましょう。 摩る事もまた、大切にする事に繋がる事があるかもしれません。それは焦点は、そのおかげを頂かなければならない助からなければならないと云う所に、焦点を置いて行きたいと、ま私は思うております。
これは私の事。けれども、まぁその様な事がです、ね、日常生活の上にあろうかと思わしてもらいます。其処を何事も信心になれよと言う、その何事にも信心になると云う事を一つ深めて広めてね、またはその裏側表側と云う事をです、一つ分らして頂かないかんのです。もういいですよもういいですよこう言う。いやそれでもとと言われれば神様の事が本当ですからね。
ああもう先生がもうええって言わっしゃったけん、もうしませんでしたそれも私がええって言うたからせじゃったけれども、それも本当であるけれども、もっと本当が奥にあったと云う事になるでしょうね、私は信心は芸術なりと言った人があるそうですが、信心を頂いて御教えを頂いて、その御教えを深く深く頂いてもっと広く頂いて、そこをですね、ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと心を練って行く所からです。
思いも掛けない素晴らしい、いわば芸術品にも似た様な物がですね、所謂千差万別な中から、千差万別なおかげがです、もう実にデリケートなもの。微妙な事なんです。が生まれて来る。おかげがあると思うんです。一応であってはならないね、今日は皆さんもご承知でしょうが、日田支部の大祭。丁度一年前の今日あちらに、奉祭、お神様を奉祭されましたもう信心を始められて、何ヶ月ぶりだったでしょうかね。
段々信心の有り難さと、金光様の信心の何とかが、段々分かって見えられて、これは自分の家にお祭りをしたいと言うので、こっちの大工さんに此処の御神前を、御神前を御用頂いた大工さんです。その大工さんが有名大工がおりますから、その人にもう一切を任せて奉祭をなさいました。で私があっちに参りましたから、奉祭式をさして頂いて。そん時に、もう此処では綾部さんだけの所のお神様ではなくて、ね、今日から日田支部の開設だと言う意味、日田支部じゃなかった大分支部。ね、
大分支部だから神様の願いが大きい。と云う事でその開設のお届けもさせて頂いた訳なんであります。それから段々綾部さんの知り合いの知る様に成った方達が、お参りなさる様になり、何とはなしに日田支部の形が出来てきた。そうして一年。そこで今日はもう宅祭りと言った様なものではなくて、日田支部のまぁご大祭として、おかげを頂きたいと言うので、もう何ヶ月前から色々準備があっております。
以前踊りの稽古場を持っておられる。娘さんが踊りの師匠が出来られる訳ですから。処が、御神縁を頂いてそれを辞められました。そりゃもう立派な現在暖冷房付きのです、それこそ総檜造りの舞台が出来ておった。それでそこを今度お神様を奉祭すると云う事に、日田支部の方達の、または集まってみえる共励会などは、あそこでさしてもらおうと云う事で。もう沢山の金をかけてから、そこが改築になりました。
お広前もせまかったんですけれどもね、その見るところ。こう舞台は広いですけれども。そのいわゆる舞台であった所が、だから神殿に成るわけなんです。内伝に成る訳です。それで、そのほかのところをずうっと広げられまして、十六畳からの、いわばお広前が出来られた。本当に高橋さんやら、秋永先生あたりが行って、色々とまぁこう設計をここへんがよかろう、ここへんがよかろうと言うてなさった。まぁだんだん見事に出来あがっておるそうで御座います。
やぁだからそこで、今日はお祭りが奉仕される訳ですが、先日の福岡の大祭の時に、今度は綾部さん所の御大祭は、教衣ども着けて御出でられたもんじゃ似合いませんよっち。今、綺麗になっとる。だから、記念祭でもありますから装束を着けて、御出でなさったらと言う話が出たんです。それもいいですな、ならそうしましょうかと、そすとなら、今までのように久富先生でもいけん事に成った訳です。
そこで本当に正式な、式服を着れれるのは、私と若先生と。それから久富博道先生と。ほれから、上野愛子先生と4人で奉仕をする事に成る。4人のだから正装で、ならまぁ大祭を仕える事にしましょうとなったわけです。ただそれを今度は、拝む信者さん方が、はぁ綾部さん所がこげんさっしゃる、親先生がひいきしてから、あそこん時だけは装束つけらっしゃると、と云う様な事を思う人があるかもしれませんね。
かもしれんです。他所の宅祭りの時には教衣で行かれる。あそこん時だけ装束でさっしやる。私共そう言う風に思うた時があったんです。けれどもですね、佐田さん滝本さん、私3人のさっきの話じゃないですけれども、これはね肝心要の例えば中心である、綾部さんに自身に助かって貰わなければならんのです。心に嫌が上にも有り難いものを感じて貰わなければならんのです。まだ信心はいわば一年生。言うならば幼稚園。
ですからね、やはりそこには手を引き、または後押しをすると云う様人達もなからなければならん、引く人もなからなければ出来ん。まぁそれこそこれは私は潔い心だと思うですね。あの踊りを止められたと言う事だって、そのいわゆる、それこそ暖冷房まで付けて、それに使うておられた事を、すぱっともう神様に切り替えてしまわれるだけでも、これ潔い私元気な心だと思うです。
だからそう言う心と一緒にです、バランスのとれた有り難さと言う物を必要なのです。そこで私はね、そう言ういわばバランスの取れた潔い心と有り難いと云う心とを、一緒に感じてもらう、頂いてもらうために形の上では、まぁ一年の記念の式年祭だからと、なら一年の式年祭だけにはなら装束を着けて、行く事ににしようかな支部の、支部だけはと、いうふうに福岡でお話しましたけれども、それも理由の一つですけれども、私の本当の心は綾部さんに、よりおかげを頂いてもらわなければならい。
もうこれだけのお金をかけて、これだけの事をしたと言う潔い心と、ね、それにふさわしい有り難いと言う物を感じて貰えれる、頂いて貰うための一つの演出でもある訳なのであります。まぁ私の真意とする処が皆さんに、分って頂けたか分らんけれども。今日の御理解が丁度その、信者に不同の扱いをすなと言う御理解ですから、ね、物を余計に持って来るから、はぁ綾部さん所はどんどんお供えをしなさるけん。
親先生が大切にしよんなさると言うだけではなくて、私はねそれこそお供えをしたいけれども、お供えが出来んと言う人も大切にする。大切にしてはならんと言うてあるけれども私は大切にする、その代わりに皆んな大切にする。今その大切にすると言う焦点はです、問題は助かって貰わねばならん、と云う所にある、置いておると云う事をです、私は信条にさして頂いておりますが、なら皆さんの生活の上においてもやはり、その様な事が言える様な事が、私はあろうかと思わせてもらいます。
信心する者は何事にも信心になれよと。あそこに10円したけんって、此処にも十円せんならんと、と例えば云う様なね、事ではいかにもそれは、不同の一応しとるごたぁあるけれども、その根本にはです、ね、人が助かるとか、喜ぶとかと云う事においては、私は反しとうと思うんですね、そう言う生き方は。あそこから百貰う取ったけんで、うちもあと百円かやる。これはいけない。
これも私まぁついでながら綾部さんから聞かせて頂いた話ですけれども、あちらのお母さんかね、お父さんが仰っておられた。あのよそからね物を貰う、それが自分の配下の人目下の人、また自分が困っておる人から、頂いた時には向こうから百円頂いたなら、二百円返すのがエチケットぞ、と言うて教えられとりますと云う訳なんです。だからそれが本当の事なんです。
だからあそこに百円しかやりなさるな、此処に二百円やりなさったと云う事ではないと。それが信心でそれがなされる時です、私はね、本当の意味においての大切にすると云う事は、そう云う事じゃなかろうかと、こう思うわけです。しかし良い事ですね。自分よりか目下の、のね、例えば、上役下役って言うがありますが。ね、なら下役の方からお祝いを百円頂いとったけん、あの人の家も、また帰さんなん時、百円貰ったけん、百円返しとけ、そう云う事ではいけないっち。
それが自分の配下である場合には、頂いたその倍を返すのがエチケットだと。私はそれを真心だと思うですね、信心でなされるなら。私はもう本当にそう言う一つの生き方をですね、日常生活の上に求め、求めしております。信心を信心で。今日は此処ん処の、大切にする様な事ではならんと云う所に焦点を置いて、聞いて頂きました。けれども私は、私は大切にする。その代わりに誰でも大切にする。それはそこに私に縁を頂いて、おかげを頂かれる人達の上にです、ね。
形の上では不同であっても、その人が助かって貰わなければならんと言う事に、焦点を置いて考える。とにかく今言うようにせっかちですから考え違いをして、浅い考えをする様な事もある。滝本さんの事を私が、佐田さんに申しました様な事は。だからそれを一言の佐田さんの、ひとつ私の進言ですよね、を聞かして頂いて、親先生時節を待って下さいとこう言われる。そこからねより助かられる事の深い処に触れた訳になります。そう言う意味において、大切にすると云う事を、今申しましたですね。